プランを決定するのは、建主さんの特権です。そこに異論などはなく、ユーザー参加を謳うインクルーシブデザインの観点からも、むしろより積極的に建主さんには家づくりに参加してほしいと願っています。
でも、これいいですよというアドバイザー的視点で提案したアイデアが却下されると、やはり一抹の寂しさが背中のあたりに漂ってしまうのは、きっと僕の人間力のなさなのでしょう。
薪ストーブというアイデアは、その最たるものかもしれません。
火を使うことは、道具を作ったのと同じく人間の原初の行為であり、そのホモサピエンスとしての自分を常に感じるきっかけにもなることや(特に子どもにとっての貴重な体験!)、火は危険そのものの自然現象であり、形ある物を焼き尽くす可能性に怖いくらい満ちていること、そして薪ストーブを使うのは木質バイオマスの利用としてCO2発生ゼロカウントであることなどが、僕が薪ストーブをオススメする理由です。
ところが多くの方は「薪ストーブは手入れや薪の手配が面倒」ということで、その採用を見送ってしまうのですね。
確かに高気密高断熱がスタンダードとなった昨今の住宅では、数値上の温熱システムとしては薪ストーブは要らないのです。無暖房住宅という言葉があるくらいで、なくても十分に温かい。それによくよくリアルに想像すると、山林に分け入って間伐の手伝いをし、有り難く頂戴してきた間伐材をチェンソーなどで当分に切り分け、それをさらに斧で〝使える大きさ〟に縦割りしていく自分の姿なんて、なかなかイメージできないものです。俺って森林男子だったっけ? そこまでやる? と自分の本気度を問いただしていくと、僕はとどのつまりはシティボーイなのだと、心の中で死語とも言える単語を復活させて呟いてしまうのが関の山、なのでしょうか。
でも、薪ストーブの本当の良さって、理屈ではなく、体が芯からじんわりと温まっていく生理的感覚であり、炎の揺らめきを見つめている時に沸き起こってくるある種の瞑想感覚であり、薪棚から運んできた薪を手に掴んでストーブにうまい具合に入れる一連の行動の心地よさだったりするわけです。
アナログで面倒だから、楽しいわけです。楽しくて、楽しいだけではなくて、体がポカポカしてくるから、幸せになるのです。オーロラの炎の紫色が、熾火の赤色が、パチパチと薪が爆ぜる音が、薪ストーブが生きている波動のようなものをこちらに送ってきます。炎を奏でながら、薪ストーブが笑っているようです。