森には宝物が眠っている。というか、植っている。
昨日、建主さんご夫妻と見た糸島の森の土地にはイヌガヤがあった。
松かモミの木かと思って写真におさめてきて、樹木図鑑で調べたらどうやらイヌガヤらしい。
「らしい」というのは推定で、樹木の専門家ではないから断言はできない。イヌガヤは、縄文時代の前期には弓を作る樹木としても使われていたという。
これがその姿。
ここらに庭をつくればいいんじゃないでしょうか? と僕が指さした法面の一部にイヌガヤは、上品な佇まいで潜んでいた。
広い敷地のどの辺りの土を削って全体を平らにすれば、おそらくはこの辺りが法面になって、そこに何本か枕木を置けば、庭に降りていく階段ができるだろうという頭の中のスケッチを共有しながら、この森での暮らしについて、しばらく、僕たちは会話を交わした。
丸い緑色の実は、それを絞って燈油として使われていたらしい。1944年に書かれた柳田國男の『火の昔』には、京都の古い神社では今でもイヌガヤ油を灯明に使用していると記されている。
平安時代中期に編纂された法令集である『延喜式』にも、イヌガヤの油のことを、種子の内乳からしぼった油で「閉美油(へみゆ)」と呼ぶという記述があるという。
イヌガヤ油は凝固点が-5℃以下で、寒い冬でも凍結せずに明るく燃えるので冬の神事には欠かせない燈油だったというのだ。家に帰って、その記述を読んだ時、僕の頭の中の闇に、ひっそりと燃える庭燎(にわび)が風に揺れている様が浮かび上がった。森全体が青い夕景色に沈んでいて、庭燎の先の小高い部分には慎ましやかな家屋のシルエットがあって、そこから夕餉の灯火がもれている。
その庭燎の小さな明るさは、僕のイマジネーションを一気に、縄文時代の切ない風景へと運んでくれる。いい家ができる、いい場所だな。森の宝物は、そんな想像を僕に与えてくれた。