猫を飼うと癒される、というのは或る部分は正しく、或る部分は正確ではありません。猫を飼えば、日に数度はトイレの世話をしなければならず、毎日のお世話があるので気軽に旅行に出かけることはできなくなるから、極めて不便な日常が待ち受けているからです。
それでも、猫と暮せば、確かに癒されます。甘い鳴き声を立てながら、美しい眼差しで足元にすり寄ってくる様はなんとも言えず可愛らしく、喉を鳴らしながら顔に飛び乗ってきてご飯をおねだりする純真な姿はすべてを委ねているようで心から安心感を享受できます。例えそれが朝の5時であろうが、心を許して甘えてくる仕草にはこちらも心を全開放して応えないわけにはいかないという、悟りの境地になるのです。
毎日のトイレの世話は、いずれ訪れるであろう肉親の介護のトレーニングだと思えばなんてことはありませんし、旅行だって、いざとなれば猫シッターさんに世話を依頼して旅立ってしまうことだってできるのですから、本当の意味での不便さではないのかもしれません。
教えられることも多いのです。不可解な人の行動も、相手が猫だと思えば、ちっとも不可解ではなくなり、世の中にはいろんな人がいるのだと自然に納得できるようになります。気紛れな女性の行動も、猫に置き換えてみたら、心穏やかに受け入れることができます。すごい! 恋愛に苦しむ人には、心より猫を飼うことをオススメしたいと本心からそう思います。多様性とは、まさにこんなことなのかもしれませんね。
ですが、それでも、そんだけ可愛い猫様でも、本当に厄介だなあと思う時があるのです。我が家では、アーゴとパーニョという二匹の猫を飼っているのですが、アーゴの方はかなりの〝気にしい〟で、人目ばかりか猫目も気にして、パーニョが居る前では決して甘えて膝などに乗ってはきません。そしてパーニョが別の部屋に行ったり、妻が不在の時などに、不意に甘えて飛びかかってきては頭や体を撫でてほしいと執拗にリクエストするのです。そしてもしそのリクエストに即座に応えなかったり、誤って冷たい態度を取ろうものなら、いきなり布団やソファーの上に温かくて臭いオシッコをふりかけるのです。エッ、なんでッて思う隙もないくらい瞬時にそれを実行に移し、何もなかったかのような冷たくも美しい眼差しでこちらを見ているアーゴ。
そんなアーゴです。そんなアーゴですが、それが自然なのだと思えてきます。不思議に自然な気持ちでそう思えてくる時、これこそが猫と暮らす本当の意味での恩恵なのだと感じている自分が居て、そのことに感謝の気持ちを覚えてしまい、この不便さから何かを学び取っているような快感を覚えてしまうのです。